AKUNOURA HISTORY

朱印船貿易

大航海時代、飽の浦には荒木宗太郎という商人が壮大な屋敷を構えていました。1592年、豊臣秀吉が最初に朱印状を発行した豪商8人のうちの一人が荒木宗太郎で、長崎を拠点に朱印船貿易を行っていました。荒木の妻としてベトナムから嫁いだ王加久戸売 、通称アニオーさんも一人娘をもうけて、飽の浦に暮らしたと言われています。飽の浦は、その昔から海外からの情報や文化が行き交うグローバルなまちだったようです。

外蕃書翰自長崎到安南国船図。 荒木宗太郎の船には、オランダ東インド会社のロゴを上下逆にした船旗が掲げられていたことでも知られています。

年表(長崎開港以降)

1571長崎開港、ポルトガル船入港
1592 豊臣秀吉が朱印状発行
1636出島完成
1641オランダ商館が出島に移転
1808英国軍艦フェートン号事件
1823シーボルト来崎
1855海軍伝習所設立
1857ヘンドリック・ハルデス、オランダ海軍医ポンペ来崎、日本初洋風建築(レンガ造)、蒸気機関、西洋医学の導入
1859長崎開港、グイド・フルベッキ、トーマス・グラバー来崎
1861小島養生所開設
1879立神第一船渠(ドック)完成、フランス人技師ワンサンフロラン設計
1875飽の浦小学校創立
1887長崎造船所を払下げ、三菱社の所有となる
1896飽之浦小学校校舎現在地にて落成
1897飽の浦中央発電所完成、三菱造船所病院開設
1898渕村が長崎市に編入、常盤丸竣工
1899三菱工業予備学校設立
1904占勝閣竣工
1905第三船渠完成 、世界的巨船ミネソタ号入港
1906梁瀬町、旭町間に稲佐橋を架橋
1909大波止、水ノ浦間渡船運航開始
1910ジャイアント・カンチレバークレーン建造
1918飽の浦~水の浦 1万3,039坪埋立完成、 西日本最新設備の三菱病院完成
1919飽之浦教会(カトリック)創立
1923飽の浦小学校新校舎(鉄筋コンクリート造3階建て)、上海航路就航
1942戦艦武蔵竣工 当時としては世界最大、最強 、4年以上の歳月と莫大な国家予算で建造
1944飽之浦教会(プロテスタント)強制疎開指令により解体、第1次空襲(8月11日)
1945第2次(4月26日)-第5次(8月1日)空襲 原子爆弾投下(8月9日)、原爆中心地から約3.5kmの飽の浦周辺も被害
2015長崎造船所内の施設がユネスコの世界遺産リスト「明治日本の産業革命遺産」に登録
2019AKUNOURA HUISオープン(2月5日)

世界遺産 「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」

徳川幕府が設立した日本初の本格的洋式工場を発祥として、飽の浦(アクノウラ)は、船舶建造や産業発展を支えてきました。製鉄所建設時には、オランダ人技師らが招聘され、日本の近代化を先導しました。製鉄所はその後、明治政府を経て、岩崎彌太郎に払い下げられ、現在の三菱重工業長崎造船所となりました。2015年、長崎造船所内の施設が「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として UNESCOの世界遺産リストに登録。8 県11 市にまたがる23か所の施設のうち、1/3が長崎市に集中していますが、そのうち4つの施設が、飽の浦の長崎造船所内にあります。

1857年、日本で最初の艦船修理工場として設立された「徳川幕府 長崎鎔鉄所」。1860年に長崎製鉄所に改称。
出典:三菱重工史料館パンフレット。
幕末の飽の浦のオランダ人止宿所 
出典:「甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」、朝日新聞写真部。
長崎の先駆者として、三菱創業者の岩崎彌太郎をモチーフにした「弥太郎カプチーノ」。出島のカフェATTICで出会えます。

旧木型場
1898(明治31)年、機械部品やプロペラなど鋳物製造の木型をつくるための洋式工場が建造されました。木骨レンガ造り二階建て。明治30年代に建造され現存する木型場としては国内最大規模で、木造クイーンポストトラスの小屋組み、屋根は切妻造桟瓦葺となっています。1895年からは、三菱重工業長崎造船所「史料館」として公開され、官営時代から三菱創業期を経て、現在に至るまでの歴史的な資料900点余が展示されています。

占勝閣
1904年、長崎造船所長、荘田平五郎の邸宅として占勝閣が完成しました。「風光景勝を占める」と長崎港を見渡す絶景が建物の名前の由来。設計は、ジョサイア・コンドルに西洋建築を学んだ曽禰達蔵で、洋風の木造2階建て。皇族や船主をもてなす迎賓館として使用されています。

第三ドック
1905年、当時としては東洋最大の第三船渠(ドック)が完成しました。竣工時は長さ222.2m、幅27m、深さ12.3m。英国製の電動機で駆動される排水ポンプや、底や壁面の石垣も当時のままで、船の修理や整備を今も現役で行っています。

世界遺産・旧木型場。三菱重工業長崎造船所「史料館」として公開されていますが、現在、建物工事のため臨時休業中 。
世界遺産・占勝閣。非公開ですが、沿道から外観を遠望できます。
世界遺産・第三ドック。現役稼働施設のため非公開。付近の高台からちらっと見えます。出典:近代日本百年史第八集(明治39年)

ジャイアント・カンチレバークレーン
1909年(明治42年)、イギリス、 スコットランド製の巨大な電動クレーンが建設されました。ハンマーヘッド型のジャイアント・カンチレバー・クレーンの高さは約62m、アーム部分の長さは約75m。同型としては、日本で最初に設置されました。造船所内の機械工場で作られたタービンや、船舶用プロペラ等の製品、機材を船に積み込む際に使用されます。スコットランドが歴史的に貴重な遺産をデジタルデータで収録するプロジェクト、SCOTTISH TENにもなっています。

世界遺産・ジャイアントカンチレバークレーン
SCOTTISH TEN

赤レンガの最新式病院

1918(大正7)年竣工の三菱病院。出典:飽浦小学校百年史。

1897(明治30)年、三菱長崎造船所の 工場附属病院として飽の浦にベッド数50床の洋風2階建ての三菱病院ができました。日本初の西洋式病院です。その後、1918(大正7)には、ベッド数100床の病院となりました。エレベーターやレントゲン室など、当時としては 西日本で最高水準 の設備を備えた病院でした。

ヴォーリズの教会

1906(明治39)年、日本メソヂスト長崎中央教会の講義所として飽の浦にプロテスタントの伝導拠点 (現・日本基督教団長崎飽之浦教会) が開設されました。1919(大正8)年には、カトリックの飽の浦教会も創立されています。1928(昭和3)年に建立されたプロテスタントの教会堂は、ウィリアム‧メレル‧ヴォーリズの設計で、活水学院の2年後に竣工しました。1944(昭和19)年戦時強制指令により接収され、会堂は破壊されてしまいましたが、現存していたら、文化財になっていたことでしょう。

1928年竣工飽之浦教会外観。出典:「日本キリスト教団長崎飽ノ浦教会 創立100周年記念誌」
飽之浦教会内部。出典:「日本キリスト教団長崎飽ノ浦教会 創立100周年記念誌」

飽浦小学校

1875(明治8)年に飽浦小学校が創立。大日社(現・伊勢宮神社)の社殿を校舎として使用するなどしていましたが、1896(明治29)年に現在地に校舎が落成。その後、 1915(大正4)年に増築され 、1923(大正12)年には、 当時の建築の先端技術であった鉄筋コンクリート3階建ての校舎が落成しました。1923(大正12)年の関東大震災で、小学校校舎の全国的な鉄筋コンクリート化が進みますが、長崎市内では、先行して建築の近代化が進んでいました。

1890(明治23)年頃の木造校舎。出典:飽浦小学校百年史。
1923(大正12)年落成の鉄筋コンクリート校舎。出典:松尾建設百年史。